Sekime blog~Webライターの雑記ブログ~

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エッセイ⑩お母さんのこと

10、お母さんのこと

 

お母さんについて、あまり記憶にない。

 

というとちょっと語弊があるかもしれない。

実際に私の母はまだ生きているし(2025年6月現在73歳)、私は結婚してから実家の近くに家を買ったので、割と頻繁に会う。

だけど昔の母、つまり私がまだ「お母さん」と呼んでいたころの彼女の記憶があまりないのだ。

もちろん私は44年間ほど彼女の娘をしてきたわけだから、ぽろぽろと覚えてはいる。

だけどそれはぼんやりしていて曖昧で、私が勝手に作った記憶のような気がしている。

目の前にいる母が、記憶の上に更新されていくようだ。

 

お母さんは、昭和26年生まれの女性にしては、背が高い方だった。

父方に似てやせ型で細面、髪の毛は常にショートで「細長い」イメージの人だった。

大阪府の公務員でキャリアを積み、50代半ばで退職して、それまでの私が見たこともない金額の退職金をもらっていた。

読書が趣味で、新聞数紙を読むのが好きだった。

当時の漢検1級を取るほど漢字に強く、百人一首は全部覚えていて、日常会話に上手に組み込んだりしていた。

そしてオセロが上手く、府の大会で上位に出るほどだったと聞いた。

そういう情報は覚えているけれど、母親としての彼女の記憶が、本当に曖昧だ。

どんな表情をしていたのか覚えていない。

どんな喋り方をしていたのか。

どんな目で私を見ていたのか。

どんな風に抱っこされていたのか。

 

若いころのお母さんは、いつも「忙しくて疲れている人」。

仕事が多忙で家にいないので会話できる時間が限られていたし、たまにあるそういう時間に話は聞いてくれないし、やっと何かを相談できたらまず否定から入るから、私は母と折り合いが悪かった。

私はお喋りだけど、大切なことの相談は母にはしない。

大体事後報告で終わる。

それは、子どものころに「この人に話しても無駄だ」と諦めたからだろう。

自分も子どもを産んだ今は、心配が先立つ親心でそうなったのかもしれないと想像できるけれど、子どもの私には「嫌なお母さん」だった。

話を聞いてくれないうえに、まずは否定から入るから。

そんなの止めとき。

そんなことしてどうすんの。

いや、でもそれはダメとちゃう?

そういう風に言われるから、大事なことは自分で情報を集めて決めてきた。

よかったことは、決断力が育ったことか。

 

忙しく疲れている人だったので、食事は雑だった。

お弁当も、必要なときは作ってくれてはいたけれど、プリントを渡すたびに「面倒くさい」とため息をこぼしていたので、中学生になってからは私が自分で作った。

お母さんのおにぎりが好き、そう友達が話していたとき「へえ」と思っていた。

そんなに何か違うか?と。

小ぶりのおにぎりに味付け海苔が巻かれていたことしか覚えてない。

母が料理に集中するようになったのは、50代で早期退職をしてからだ。

父が何度か大きな病気になったこともあり、健康管理のためにもと毎食行き届いた料理を作るようになった。

そのときにわかった。

ああ、あの頃のお母さんは姉や私のために何かを作ることが面倒くさかったわけではなく、本当に単純に、作るという作業が面倒くさかったんだな、と。

 

私が大人になり、結婚してからの母については、割と記憶がある。

多分、こちらに余裕ができて、親という立場を理解したからというのも大きいだろう。

育てにくい子どもだった幼少時よりも、私が出産して病気になってからのほうが、かけた苦労と心配は多かっただろうと思う。

そのころから、私は「お母さん」ではなく「みっちゃん」と呼ぶようになった。

母の母、つまり私の祖母が亡くなるとき、祖母に母が話しかけたらしい。

「誰だかわかる?」と。

そのころの祖母はもう記憶も途切れていてよくわからなくなっていたけれど、問いかけられて、うっすらと目を開き、柔らかい声で言ったんだって。

「みっちゃん」て。

その場面を私は見ていない。

でも話を聞いただけでも、祖母の小さく柔らかい声が本当に大事な我が子を呼ぶ声だったんだろうなと想像できた。

祖母は、母がまだ小さな子どもだったころ、みっちゃんと呼んでいたのだろう。

最後にはちゃんとわたしをわかってたよ、と話す母は嬉しそうだった。

当たり前だけど、母は私と姉の親になる前は誰かの大切な子どもで、数十年かけて育てられてきたんだよなという事実が、そのとき目の前にぽたりと落ちてきた。

重量があって瑞々しくて、じんわり足元から広がっていった。

私は子どものころ、母にこれをしてもらったというキラキラ光るような優しくて甘い記憶はほとんどないけれども、衣食住を整えて心配事の少ない成長期を贈ってもらったのだと、やたら強烈に理解した。

ちょっと頭痛がしたほどに。

母なりの精一杯で、私と姉は大事にされていた。

文字に書かれて瞼の裏で流れ、それを目で追っているようだった。

この人を大事にしよう。

そう決めて、だからそれ以来、私もみっちゃんと呼んでいる。

 

若いころの母について、記憶があまりない。

今の私より若い、あのころの「お母さん」を覚えてない。

それについてたまに少し残念な気持ちになるけれど、必要がなかったのだろうと思うことにしている。

今のみっちゃんと、これからのみっちゃんを覚えていこうと思う。